徒然

「ケードロ」が何故あんなに楽しかったと、今でも感じる件について

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皆さん、子供の頃「ケードロ」をしただけろうか?

このタイトルを見た8割は、

懐かしい!!という印象を抱いたに違いない。

 

警察と泥棒に分かれて、捕まえる逃げるの攻防を繰り返した

あの日々は、思い出すだけでもセンチメンタルになるだろう。

 

ケードロ派とかドロケー派とか、この際は一旦置いておく。

今回は、ケードロが何故あんなに私たちの少年少女時代を

あんなにときめかせてくれたのか、

そして大人になっても懐かしさでときめくのか

徹底検証をしてみる。

 

 

 

 

ケードロのルールから改めて

 

そもそも何故、こんな記事を書こうと思ったか

それは1通の質問だった。

 

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この方もきっと思い出したのだろう。

忙殺されるこの日本社会に、辟易し

純粋無垢で楽しんだあの遊び、「ケードロ」を。

 

なんて素晴らしかったんだ、と。

そして、まさか記事にされるとは思ってもいないはずだ。

 

一応触れておくと

関西が「ケードロ」、関東が「どろけい」、東北が「助け鬼」だそうだ。

ルールは

警察が泥棒を捕まえることを目標に

警察と泥棒に分かれて、鬼ごっこのように追いかけ、牢屋まで連行する

 

これを今回の前提として考察していく。

 

考察1:人の動物的本能

諸説あるが

進化論的にみると、人間がチンパンジーから分かれたのは

600万年ほど前で、そこから身体や心の部分が独自に進化を遂げたそうだ。

 

しかし、数万年前にホモ・サピエンスになってから

現在の人間に至るまでは基本的性質はほとんど変わっていないのである。

 

ここに私は、「ケードロ」の楽しさを見出した。

 

ケードロは警察官が泥棒を追いかけ、捕まえ、牢屋にいれる遊びである。

 

そして

数万年前の我々は、間違いなく狩猟生活をしていた。

そして、基本的性質が変わっていないということは、身体的特徴、考え、モノの見方も

本来の性質同様、狩猟に適したままだと考えられる。

 

ケードロの泥棒を、集団で追い詰め、狩り、牢屋へ連れていくという部分は

泥棒=獲物、追い詰める戦略=集団での狩猟戦略、牢屋=住処

と考えることができるのではないだろうか。

 

つまり、ケードロの楽しさは

数万年前から、人間の根底に根付く狩猟本能を呼び覚ますことに由来する。

あの楽しさは、子供心ゆえの遊び心ではなく

子供ゆえの純粋さからくる、本能への無意識の回帰であると考えられる。

 

以上、人間の本能の面から考察した。

次は社会的動物としての面から考察する。

 

考察2:社会的動物としての人間

人は社会的動物であると、よく耳にする。

これはアリストテレスの著書「政治学」での言葉に由来する。

 

彼はこの著書で、「ZOON POLITIKON」=「人間はポリス的動物」

と述べた。

ここで言うポリスとは、単に社会を意味するものではない。

 

政治学のポリスについて引用すると

国家はいずれも、われわれの見るところ、一つの共同体であり、共同体はいずれも何かよきこと(福利)のために出来ている—というのは、すべて人間は何ごとをなすにも、自分がよいと思うことのためにするからである—とすれば、明らかにすべての共同体のめざすところはなんらかの善であり、そのうちにおいてもまたあらゆる善の最高最上のものを目標とするのは、他のすべての共同体を自己のうちに包括する最高最上の共同体がそれであるということになる。そしてそれこそが国家(ポリス)と呼ばれているもの、すなわち国家共同体にほかならないのである。

村落が二つ以上集まって出来る最終の共同体、すなわち共同体として完成したものが国家(ポリス)なのである。それはいってみればあらゆる自足の条件を極限的にみたしているのであって、それの生成理由はわれわれが生存するための必要によるものであったが、いまやそれの存在理由はわれわれの生活をよくすることにあるのである。このゆえに国家はすべて自然の産物なのであって、これはそれに至る最初の公共体(家族や村落)がすでに自然によって生じたものであるとすれば、そういう結論になるはずなのである。というのは、国家はかの共同体の最終目的であり、ものの自然の本性は最終目的となるものにあるからだ。

ものがそのためにあるところのもの、すなわちそれの最終目的となっているものは、究極的な善ということになる。自足性というものは、共同体にとっての一つの目的であり、善として究極的に求められているものなのである(そしてそれは国家において実現されるのである)。

 まとめると

  • 共同体の目指すところは「善」であり
  • ポリスの目的因は最高の善。

である。

 

そして、人間が目指すところも「善」であるから

人間はポリス的動物といえるのである。

 

長くなったが、「ケードロ」に話を戻すと

 

警察=善 すれば

牢屋をポリスと捉えることが出来る。

そして、泥棒を捉えようとする行為が「共同体の目指す最高善」となるのである。

ケードロという遊びには、当然ルールが存在し

このルールこそが、ポリスにおける法律と考えられることからも

この遊びの社会性の高さがうかがえる。

 

考察1と同じように、子供たちは純粋ながらも

この遊びに身を投じることで、幼いころから

「社会性」を育んできたのではないだろうか。

 

結論

以上、「ケードロ」という

誰もが子供の頃に慣れ親しんできた遊びを

狩猟本能という観点と、社会性という観点から考察できた。

 

質問で来たように、大人になってもケードロが楽しかった

と感じることは、至極もっともなことであると推測できる。

 

本能的に人間に刻まれた性質をフルに発揮することが出来る遊びこそが

「ケードロ」なのであり

本能に逆らえないからこそ

こうやって、子供時代は全力で楽しめ

大人になっても、本能のまま楽しめた記憶が蘇るのである。

 

このような質問を送ってくれた人には

感謝の気持ちをしめしたところで、この考察をしめたいと思う。

 

※この記事はネタ的に書いたもので、本当の学説とは異なる可能背もございます。あくまで、余興の一環としてお楽しみください。

 

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